



8月9日(日)に平和学習を行いました。
最初に、深堀讓治(ふかほりじょうじ)さんが、14歳の時の被爆体験を語った証言映像「8月
9日の記憶」(公益財団法人 長崎平和推進協会制作)を視聴しました。
【動画の内容】
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1. プロローグ ・動画は、「これは、私が今までに経験した中で一番悲しく、辛い話である。人が死ぬ、 特に父や母がいなくなるということが絶対にないように、みんなが心を合わせ、平和を 求めて努力していくべきだ。」という語りから始まります。
2. 8月9日当日の被爆 ・深堀さんは、当日の朝に空襲警報が鳴ったので、学校工場に行かずに自宅で待機しよう と思っていました。すると、友人が「空襲警報でも学校に出て働け、という連絡があっ た」と呼びに来たので、家にいた母や兄弟の方を振り向きもせずに、「行ってきます」 とだけ言って家を出て、学校工場に向かいました。 ・長崎市鳴滝町にあった学校工場で作業中、突然、周囲がピンク色に強く光りました。と っさに床に伏せて耳と目をふさいだところ、爆風に見舞われました。爆心地から約3.5 キロメートル離れていたので大きな被害はなく、裏山にしばらく避難した後、自宅に戻 ろうとしました。 ・長崎駅より先が火の海だったので、いったん引き返し、大きく迂回(うかい)して帰る ことにしました。建物が燃えていて、どこを歩いているのかよくわからない状態だった ので、自宅付近に着いたときはすっかり暗くなっていました。そこで、その日は被爆し た人たちが多く集まっている避難所で野宿をすることにしました。実は、そのすぐそば に、まだ生きている弟や妹がいたのですが、暗くて気づきませんでした。
3. 家族の死 ・8月10日、夜が明けてからすぐに、爆心地から約600メートルの場所にあった橋口町の 自宅へ向かうと、家はすっかり燃えつきていました。家族を探して回ると、母の変わり 果てた姿を見つけました。母の亡骸(なきがら)に手を合わせた後、今度は兄弟の姿を 探していると、中学1年の弟(コウジさん)と奇跡的に再会しました。 ・自宅の釜(かま)には、9日の朝に配給で手に入れたお米が炊かれていました。母は、 「子どもたちに食べさせたい」とお米を炊いている途中で被爆し、亡くなったのでし た。 ・コウジさんを避難所で休ませている間、小学5年生の弟(アキオさん)を探しました。 しばらくすると、近くにある橋の路上で、腕に裂傷を負い、横向きに縮こまったアキオ さんを見つけました。アキオさんにやけどのあとはなく、衣服を着たまま亡くなってい ました。 ・深堀さんは、街の惨状を目の当たりにしながら、コウジさんを連れて叔母の家に行き、 そこに身を寄せました。しかし、コウジさんは次第に元気がなくなり、一週間後に「兄 ちゃん、死ぬなよ。」という言葉を遺して息を引き取りました。 ・その後、4人(母と二人の弟、妹)の骨を手製の小さな1個の箱に収め、父が眠る墓に スコップで穴を掘って埋葬しました。
4. エピローグ ・最後に深堀さんは語ります。「今は平和だが、戦争中、それまで自分が全く考えもしな かったことが、ある日突然起こった。それを目の前にして初めて、戦争というのはこう いうものだと分かった。それを皆さんはなかなか理解できないと思う。そういう状況に ならないように、友だちとも仲良くしてほしい。そして、戦争が起こらない平和な世界 が来るように、学校でも社会でも活動してほしい。」
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動画を視聴した後、全国と長崎県の、原爆の日に対する認知度の差を確認し、自分たちに原爆の
悲惨な現実を伝える責務があるのかを各自で考えてもらって、隣席と話し合わせました。
生徒たちからは、次のような意見が上がっていました。
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(生徒の意見)
・普段から戦争について見たり調べたりするけど、こうやってしっかり考えながら文字に
書くことは少ないから考えさせられた。
・家族や友達と原爆について話す機会を作ろうと思いました。
・10人が話して10人全員が納得できる答えはないという言葉があるように、私たち
人間は分かり合えないことがあると再確認させられる。だが死んでいい、多少の被害
はあってもいいという考えは絶対あってはならないと私は思います。
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最後に、生徒会執行部が全員で平和宣言を読み上げて、平和学習を終えました。
令和8年度 大村高校定時制「平和宣言」[PDFファイル/104KB]