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命の問題Ⅱ(第26号)

2021年1月26日更新

長崎県立五島海陽高等学校

校 長   古川 賢一郎

昨年7月23日、医師2人が全身の筋肉が衰える難病ALS(筋萎縮性側索硬化症)の女性から委託を受け薬物を投与して死亡させたとして、京都府警が2人を嘱託殺人(刑法202条)の疑いで逮捕した事件がありました(その後、送検・起訴)。

この医師が報酬を受け取っていたこと、ブログ等で優生思想的な考えを主張していたことなど特殊な部分はありますが、長年日本で議論されてきた安楽死の問題(1916年森鴎外が『高瀬舟』にて、当時のヨーロッパにおける安楽死問題を紹介したのが始まりだとされている)が再びクローズアップされています。

 この問題が難しいのは、時間の経過と共に状況が変化すること、対象となる人の心の問題、死生観が大きな部分を占めていることです。そのため、使われる用語も定義づけが曖昧な部分があり、普遍的な行動規範を求める法制化になじまないことが背景にあります。

 『安楽死を遂げるまで』の著者宮下洋一さんによると、安楽死は、前提として「患者本人の自発的意志に基づく要求があること」で、4つに分類されています。1つは、医師が薬物を投与し患者を死に至らせる「積極的安楽死」(狭義の安楽死)。2つめは、医師から与えられた致死量で患者自身が命を絶つ「自殺幇助」。3つめは、延命治療を手控えまたは中止する「消極的安楽死」(これには命を終わらせる目的で行われる場合とそうでない場合がある)。4つめは、終末期の患者に投与した緩和ケア用の薬物が結果的に生命を短縮する「セデーション(終末期鎮静)」です。

尊厳死(Death with dignity)は、国によってその解釈が異なっています。スイスやオランダは積極的安楽死や自殺幇助によって患者の尊厳が守られると考え同義語扱いしており(スイスでは外国人にも開放しており、その様子がNHKスペシャルで放送されました)、アメリカでは2つを同一視することを避け、日本では消極的安楽死に近い考え方をとっています。

 1976年米ニュージャージー州で昏睡状態となって人工呼吸器につながれていた女性患者に対し、裁判所は呼吸器の取り外しを容認し、全米で自然死法制定の流れがつくられました(カレン・クインラン判決)。この頃から尊厳死(死ぬ権利)の概念が登場し、オレゴン州では1994年に尊厳死法が、オランダでは2001年に安楽死法が成立し、その行為は正当とされています(2002ベルギー、2009ルクセンブルク、2016カナダも同様)。日本では法制化されておらず、判例やガイドラインに従って判断されています。

 1991年に発生した東海大学安楽死事件で横浜地裁は、多発性骨髄腫の男性患者の息子から依頼され塩化カリウムを投与した医師を有罪にする(患者自身の明示の意志表示がないとし、刑法199条の殺人罪を適用)とともに、「患者の死期が迫り」「耐えがたい激しい苦痛に苛まれ(現在は緩和医療が進み、肉体的な苦痛はコントロール可能になりつつある)」「医師が救済する手段がなく」「患者が自発的に死を希望」していれば、自己決定権を尊重し安楽死させることは違法ではないとする判断を示しました。この流れを受け、厚生労働省も2007年『終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン』を定め(2018年改訂『人生の最終段階における医療・ケアの決定プロセスに関するガイドライン』)、「無駄な延命治療」の中止を容認し、2012年には超党派の議員連盟から「尊厳死法」制定に向けての動きがありましたが、法制化は実現していません。現在も積極的安楽死はガイドラインの対象外で、患者本人の意思表示の有無にかかわらず、刑法の対象となります。

 今横たわっている問題点を、いくつか挙げてみます。

(1)人間が主体的に自分の生き方を決めることは、満足のいく死に方までを決めることでもある。しかし、その考えは自殺を肯定することに繋がらないか。

(2)患者が意図する自殺に対し、第三者が有形無形の便宜を供与することは許されるのか。

(3)「患者の死期が迫る」「耐えがたい激しい苦痛に苛まれる」状態が不定期だった場合、安楽死の解釈はどこで線を引くのか。「激しい苦痛」とは肉体的なものに限定するのか。

(4)医療技術が日進月歩の中で、尊厳死の基準となる「無駄な延命治療」は、誰がどう決めるのか。

(5)患者の意識がなくあるいは認知症のため、どのような死を迎えたいのか不明だった場合、家族や第三者がそれを決めて良いのか。リビングウィルは一度発すれば変えられないのか。変えたいときに意識がない場合、どう判断するのか。

(6)法制化により安楽死の要件を決めてしまえば、常習化が進み、それを満たす条件のみに焦点が当てられ、患者本位の視点が置き去りにならないか。

(7)死の選択が患者の意思(自己決定権)によるものだとしても、それが他者(家族・世間)への迷惑を優先にしたもので、真の自由な決定ではない場合は考えられないか。

(8)子どもの安楽死は認められるのか。

 世の中の多くの問題は、その場に置かれている人々の視点や力点、心情によって異なるため「正」「誤」の判断は難しく、「正しいこと」同士が衝突します。日本が、死の問題に対する善悪の判断を保留しあえて法制化に踏み切らず、ガイドラインや過去の判例に基づく個別の解釈に委ねているのは、一つの知恵です。しかし、超高齢社会に突入しこれから多死社会となる日本にとって、この問題は避けて通れないもので、関連するケースも増加すると思われます。難問ではありますが、議論すべき事項を丁寧に解決していき、国としての方向性を定める時期に来ているのかもしれません。

「死の在り方」の問題は、自分がその立場になった場合、医師、家族、友人、第三者として判断する場合で、答えが違ってくると思われます。「自分の死」は「社会の死」でもあります。特に医療・福祉系の進路を考えている人は、研究してみてください。

 

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